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まめちち・開発ストーリー 第1話|女たちで築いた豆腐屋 横山食品

まめちちの製造元の横山食品のみなさま

「がんもどき」が母の味

登美さんの十八番の料理がある。

揚げたてのあつあつに醤油とおろし生姜をつけて、はふはふと頬張る「がんもどき」。

登美さんの実家は実は「豆腐屋さん」。がんもどきは、母の味でした。

登美さんのお母さんが創業し、お姉さん、姪御さんと代々引き継がれてきた横山食品では、最近、新感覚の豆乳「まめちち」を開発。群言堂でも取り扱いを始めることにしました。

登美さんがときどき話してくれる実家のお話は驚くことばかり。(何がって、気になられた方はぜひ、以下をご一読いただけると理解していただけるかと思います。)

松場家もなかなか面白いお家だと思っていましたが、今回は、それを超える波乱万丈な横山家と横山食品のみなさんの大豆製品への熱い思い、そして豆乳「まめちち」についてご紹介してみようと思います。


登美さんが生まれた年に創業

 横山食品の創業は、戦後すぐの昭和24年。まさに、登美さんが生まれた年でした。

きっかけは、父の徳一さん。あるとき、徳一さんが怪我をし、満足に働けなくなりました。怪我のこともあり、仕事を始めては辞めということが続いたといいます。

それを見かねた登美さんの母、かね子さんは、子どもがまだ幼いこともあり、家の中でできて、毎日収入が入る仕事をと、豆腐屋を始めました。

ちなみに、登美さんは4姉妹の末っ子。かね子さんは、4人の子どもを育てながら、新しい事業を立ち上げたのです。

工場を案内してくださる登美さんのお姉さん「教子(あつこ)さん」

「やりたいことをやってきたから、幸せ」

豆腐屋の仕事は朝がとても早いです。遅くとも朝4時には起きて仕事を始めます。

まず、水で戻しておいた大豆を大きな釜で煮て、煮上がった大豆を臼で擦って「呉(ご)」を作ります。
(当時はガスでなく、杉の枝や製材の端っこ「こわ」をもらってきて、火を焚いて煮ていました。)

次に、呉を柄杓(ひしゃく)ですくって、粗い布袋で受けて、その後、細かい袋で濾して、豆乳をつくります。
それにすまし粉(豆腐を固めるもの)を加えて、型に入れて豆腐を作るのです。

毎日150丁ほど作りました。
豆腐が売れないと、薄く切って大鍋で揚げて、揚げにするほか、がんもどきにしました。

他にも、道具を洗ったり、配達をしたり。仕事は山のようにあります。

当時のことを熱く語ってくださる教子さん。その思いを受け継ぐ孫の祥子さん。

また、豆腐屋の仕事だけでは終わらず、出てきたおからをエサにし、家の裏でたくさん豚を飼っていました。

昼夜問わず働き、夜も仕事が終わらなければ、夕飯を食べてからも働いたそうです。また、注文が入っていて必要とあらば、夜12時頃からでも働きました。

その裏には、良く稼ぐ成人男性一人分の収入をあげよう、と母のかね子さん、登美さんの姉である長女の教子(あつこ)さんの誓いがありました。

小さな町の豆腐屋さんがそれだけの収入をあげるためには、人の何倍も何倍も働かなければいけなかったであろうことは想像に難くありません。

でも、教子さんは笑顔で言います。「やりたいことをやってきたから、幸せ」と。


中学生の豚飼い

大豆のおからで飼っていた豚は、いつもだいたい20頭。

子豚を買ってきて、4か月くらいすると約100kgくらいになるので、それを売って収入を得ていたそうです。

姉の教子さんは、中学生のころから市場に豚を買い付けに出ました。

高い豚は買えないから、なるべく安い豚を買って大きく育てる。

当時でもそんな子どもは珍しく、おじさんたちはあの子に安い豚を譲ってやろうじゃないかとみんなで配慮してくれたそうです。


仏の徳一っあん

しかし、豚を売って得た収入は、というと、横山家の財布からするすると飛んでゆきました。

「父の徳一さんは人が良く、すぐに人に(お金を)あげてしまっていた」とか。

貸していたのかもしれないけれど、ほとんどは返ってこなかったと教子さんは言います。

お金を返してほしいと教子さんが言っても、徳一さんから借りたからと返してくれない人もいました。

「騙されたのは、騙したような(悪い)ことはない。」とよく徳一さんは家族に話しました。

けれど、何年も経ったのち、律儀にもお金を返しに来てくれる人がいたり、あの時、徳一さんがお金を貸してくれて・・・とずっと恩義に感じてくれる人もいたそうです。

あれ、なんだかこれって誰かに似てません? 
そうです。登美さんの旦那さんの大吉さん。

登美さんも巷でよく言われているように「お父さんに似た人」を好きになったんですね~


「旦那とは心中できないけれど、揚げとなら心中できる」

かね子さんも、教子さんも休みなく良く働きました。

かね子さんは、寝ないで働いては、ときどき倒れることもあったそうです。

倒れても、すぐに働いて、また倒れて、それでも働いて・・・。きっとそんな繰り返しだったのでしょう。

昭和44年に父の徳一さんが亡くなっても、休んだのは葬式の日だけというから驚きました。

人の2倍も3倍も(もしかするとそれ以上)働いたお金をコツコツと貯めたり、地域の金融機関に頼みこんでは、設備投資を重ね、平成3年には、芸濃tofu工場を。

平成17年には、安濃age工場を建てるなど、生産体制を強化しました。

時には教子さん自ら豆腐の製造、2トントラックでの配達から、営業までをこなしました。

また、豆腐だけでは賞味期限が短く全国流通できないため、揚げ部門を強化し、今では、「揚げの横山」というほど流通量が増えました。

がんもどきでは、全国一位の流通量だとか。

「いかにたくさんの人にいい商品を提供できるか」を必死で考え続け、「取引先が必要とするものをいつでもできるようにする」という熱い仕事ぶりが取引先さんからの信頼を得ていったそうです。

同じ値段ではどこにも負けないクオリティーの製品を作っているという強い自負を持って挑み続けることが、小さなまちの豆腐屋さんをがんもどきでは全国一位の豆腐屋さんにしました。

教子さんは言います。
「旦那とは心中できないけれど、揚げとなら心中できる」。

揚げたての揚げみたいに、その想いは熱いのでした。


働き者の手

こんなことを言っては失礼かもしれませんが、小柄でどこにでもいそうなお母さんという感じの教子さん。

どこからそんなパワーが沸いてくるのだろうか、と不思議に思いましたが、そんな思いの熱さ、豆腐や揚げへの愛が彼女のエネルギー源なのかもしれませんね。

教子さんの手は指が太く、手のひらも分厚くてしっかりとした働き者の手でした。

実は左の手は一部が機械に巻き込まれて完全に焼けてしまい。骨や肉を移植したそう。

大きな傷跡が残っていました。

手を触らせてもらうと、焼け切ってしまった部分がやけに固くなっていました。

それでも誰よりも上手にがんもどきを丸めたというから、これまた驚きでした。

教子さんの掌。とてもしっかりとしていて分厚い、働き者の手

がんもどきの作り方を教えてくれる教子さん

「男性に頼らず、一人でも生きていけるようにしなさい。」

働き者の女性たちが支えてきた横山家には、会社が大きくなった今でも、
「男性に頼らず、一人でも生きていけるようにしなさい。」という家訓があります。

娘の史子さん、孫の祥子さんにもその思いはしっかりと引き継がれていました。

そんな史子さん、祥子さんが新たに挑んだのが豆乳の開発でした。
そして、誕生した商品が新感覚の豆乳「まめちち」です。

次の記事では、「まめちち」の開発秘話や商品についてのご紹介をしたいと思います。

ぜひ、ご覧ください。

娘であり社長の史子さんには、まめちちの工場裏に豆腐や揚げを使った食堂を作るという野望もあるそう


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