石見銀山 群言堂

第二話 衝撃の幕開け、息子の決意|木方彩乃さんの根のある暮らし

小学校の夏休みを利用して引っ越したのだが、スタートからコケる。転居してきた日にはもう、新学期が始まっていたのだ!

夏休みは、全国一律8月31日まで(つまり私の誕生日)。そう思い込んでいたので、カルチャーショックを受ける。


そして8月なのに寒い。ヒートテックを着てタイツを履くが、まだ寒い。酷暑の埼玉と比べ、20℃近い温度差に慄く。

早速アマゾンで、石油ファンヒーターを買う。キングサイズの羽毛布団も買う。お店で見てから購入したい派であったが、辺境の地ではそんな悠長なことは言ってられない。

庭先に自生するトリカブト

衝撃は続く。

引っ越してはじめての日曜日だったと思う。休日を満喫するべく、二度寝を決めこんでいたところにチャイムが鳴った。

アマゾン様かしら?私はパジャマ姿のままドア開けた。


お隣に住むおば様だった。「焼いたから食べて」と、見るからに美味しそうなデニッシュを差し出す。さらに

「このお皿も私が焼いたの。あげるから返さなくていいわ」

葡萄の葉っぱを型押ししたという、素敵すぎる大皿である。

きたかるの民は、デニッシュ(パン)だけでなく、ディッシュ(皿)まで焼くのかっ!

パジャマを恥いるよりも深く、ひれ伏した。

息子10 歳

家の向かいには、絵葉書のようなペンションが建っていた。

同級生のお家で、ご主人は料理から庭仕事までなんでもこなす。一軒隣もモダンなログハウスで、やはり同級生のお家。

大工のお父さんがセルフビルドしたと聞き、絶句した。

ご近所にクラスメイトが2人もいるのは、ミラクルな奇跡だった。きたかる小の5年生は、たった10人。男子4人女子6人だったから、男の子が増えてうれしいと言われる。

とはいえ思春期の息子にも、様々なショックがあったのだろう。1ヶ月もたたずに、埼玉に帰りたいと泣いた。

最初はなだめたりすかしたりもしたが、やがて開き直った。

「私はやりたいことがあるので帰りたくない。自分で朝起きたりご飯を作れるようになったら、おじいちゃんのいる埼玉でも、お父さんのいる千葉でも選んでいいぞ!」

中学を出たら「きたかる」も出る。彼が決意したきっかけは、もしかしたらこの時かもしれない…。

小学校までは、片道3キロほど。熊除けの鈴を鳴らしながら、毎朝7 時過ぎに出て行く。

帰りはランドセルを背負ったまま、私の職場へ「ただいま」する。袖机を椅子がわりにして、絵を描いたり宿題したり。

そんな息子を見かねてか、社長はしょっちゅうドライブや温泉に連れ出してくれた。

社長の温泉(湯沸かしストーブがついた第二形態)

社長のプライベート温泉は、秘湯マニアも驚く「山賊風呂」であった。当時は湯を沸かす機能もなく、水風呂のような冷たさだったが、ふたりして1 時間でも2 時間でも入っておしゃべりをしていた。

息子はそこで、学校の悩みや故里への思慕をうちあけていたらしい。

「将来は冒険家になる」そう宣言していた息子に、高校は行った方がいいと諭してくれたのは同僚たちだった。

同級生のお父さんがスキーを教えてくれたり、キャンプ場のマネージャーが家庭教師をしてくれた。会長は、山へ連れて行ってくれたり、炭焼き小屋で刀鍛冶をやらせてくれた。

冬になると地面が凍るため、車で学校へ送迎しないといけないのだが、向かいのお父さんが一緒に連れて行ってくれた。

埼玉にいた時から、本当にたくさんの人に見守られてきたと思う。母としては、とても幸運で羨ましいくらいであったが、子供にとってはどうであったか。

高校生になった今は、きたかる並みに山深い片品村で下宿生活をしている。たまには帰っておいでと言ってもトント来ない。山に登ったり川で遊んだり絵を描いたり。

楽しそうで何よりである。

息子15 歳


筆者プロフィール

木方 彩乃

きほう・あやの

1978年 埼玉生まれ。多摩美術大学・環境デザイン科卒。在学中から食物を食べる空間「食宇空間(くうくうかん)」の制作をはじめる。2015年より群馬県北軽井沢にある「有限会社きたもっく」に勤務。山間の小さな会社だが、日本一と称されるキャンプ場スウィートグラスを営んでいる。山を起点とした循環型事業を展開。

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