石見銀山 群言堂

第一話 36歳からの子連れ転職物語|木方彩乃さんの根のある暮らし

 

群馬と長野の県境、浅間山という火山の麓に住んでいる。
埼玉から移住したのは、息子が10歳の夏休み。ちょうど5年が経ち、息子は高校生になった。
春から東側の県境で下宿生活をしているので、私は人生初の一人暮らしに直面している。

浅間山

縁もゆかりもないこの土地に来た理由は、「転職」である。
それまで銀座のITベンチャーに勤めていたのだが、3年の間に会社の体制が変わりまくり(上場→新規事業が2年で消滅→経営陣総とっかえ→事業売却など)モーついていけなかった。
とはいえ、いわゆる転職サイトに条件を入力して検索する…というプロセスに疑問を感じていた。
勤務地?通勤距離?年収?
数値や単語で選べないものを、探していた。

大学時代の恩師(メガネとヒゲとカミのない安西先生をイメージしてください)先生にもらった言葉が、ずっと胸に残っていた。
「やりたいことと、お金を稼ぐことを、近づけていく努力をしなさい」
「やりたいこと」は、穴を掘ることだった。
もうちょっと丁寧にいうと、大地を凹ませたり凸らせたりして「景色をつくること」。
もっともっというと、凹や凸に人が立ち入ることで「みたこともない景色を、私が見ること」。

自分が用意した空間の中で、人が話したり、笑ったり、時に思ってもみなかったことを始めたり。
それを(出来れば透明人間になって)ずーっと見ていたい…
そんなことが、仕事になるのだろうか??

偶然、日本仕事百貨さんの記事を見つけた時、最初の一文で直感した。
あせっても火は熾きない」求められていたのは、場の魅力を感じとり本能的に表現するクリエイター!
あせった私は、面接もうけぬうちから上司に告げた。
「ここに転職するので、8月に辞めます」
上司は言った。
「内定してから言ってくれ」
履歴書をメールで送ると、翌朝すぐに人事のイトウさんから返事がきた。
「あなたのような人をお待ちしていました。」
嬉しかった。すっかり受かった気になっていた。

大宮から新幹線で40分。
7月の軽井沢に降り立つと、空気が潤っていて、まるでミストシャワーを浴びているようだ。
駅前にレンタルサイクルを見つけたので聞いてみる。
「北軽井沢まで自転車で行けますか?」
店主はゲラゲラ笑った。

新幹線に乗っている間に、会社からメールが来ていた。
私を「お待ちしている」はずのイトウさんが、つい先日会社を辞めたというではないかっ!
一抹の不安を抱えながら、私は大きな観光バス(のような路線バス)に乗りこんだ。

くねくねした峠道を超え、長野から群馬に入ると、景色があきらかに変わった。
山の上だからか?木が低く、空が広い。
大宮─軽井沢間より、軽井沢から北軽井沢の方が(時間的にも体感的にも)遠い。ぜんぜん違う場所なんだ。
関東平野に住んでいたので、見える山といえば富士山だった。
もちろん遠いので、陽炎のようなシルエットでしかない。
ここでは、山といえばアサマで、活きた大地そのものだ。

ただこの時は、まだ何もわからなかった。
火山のことも自然のことも、なあんにも知らなかった。
最終面接は、息子と二人で受けた。
彼は「自然公園を作りたい」と言って社長に気に入られ、私は無事「きたもっく」へ入社したのだった。

息子作「モリゾウ」


筆者プロフィール

木方 彩乃

きほう・あやの

1978年 埼玉生まれ。多摩美術大学・環境デザイン科卒。在学中から食物を食べる空間「食宇空間(くうくうかん)」の制作をはじめる。2015年より群馬県北軽井沢にある「有限会社きたもっく」に勤務。山間の小さな会社だが、日本一と称されるキャンプ場スウィートグラスを営んでいる。山を起点とした循環型事業を展開。

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