石見銀山 群言堂

マサエおばあさんの手編みくつ下 【第3回】 くつ下という道しるべ

飯塚和子さん、咲季さん母娘と取材した根のある暮らし編集室の伊藤、こもり

11月3日(土)から12月9日(日)まで群言堂 石見銀山本店1Fにて
「マサエおばあさんの手編みくつ下展」を開催いたします。

登美さんが惚れ込んだものづくりのあり方がここにあります。
同じものがひとつとしてない、手編みのくつ下の中から
あなただけのくつ下を選びにぜひお越しください。

イベントに連動して、マサエおばあさんとその孫である飯塚咲季さんのものづくりや暮らしについて、
3回に渡り、ご紹介したいと思います。

今回は、第3回。
くつ下づくりを支えている孫の咲季さんの働き方と暮らし方について、
咲季さんにとってマサエおばあさんのくつ下はどんな存在なのか
をご紹介いたします。

* * * * * *

阿部家へのインターン

大学1年生の頃、たまたま母の和子さんが
「天然生活」という雑誌に載っていた群言堂の記事を見つけ、
咲季さんに見せました。

ものづくりのこと以外にも、社員が畑仕事をやっている写真が載っていて、
どういう風に会社が成り立っているんだろう?と感じた咲季さん。

いつかは行ってみたいと思いながら、
大学3年の春、友人と共に他郷阿部家に宿泊しに訪れ、
秋にインターンとして再び、石見銀山大森町へやってきました。

「(登美さんに)手紙で行かせてくださいとお願いしたけれど、期間も決まっていなくて。
行ってから、スタッフにいつまでいるつもりなの?と聞かれて、2週間くらいと答えたんです。」



毎日、登美さんから不思議な指令がやってきます。

「キムチ(猫)を1日追いかけて」

「穴が開いたものを繕って」

「楫パパの解体現場について行って、好きなものを拾ってきて」

その指令を実践する日々でした。

「阿部家では、竈で美味しくご飯が炊けるということが社員のミッションだったり。
サラリーマンという空気感とは違っていた。
その『暮らしていること=働いていること』という状態がいいなと思いました。」

このインターンのお礼にと、登美さんに贈ったマサエおばあさんのくつ下を
登美さんがいたく気に入ったことで、
他郷阿部家や群言堂本店で使われるようになり、
今回の「マサエおばあさんの手編みくつ下展」へとつながってゆきます。
すべてはご縁。


その後、普通の会社に就職するというビジョンが咲季さんにはなく、
就職するとしたら、群言堂のような会社に・・・と漠然と思っていたそうですが、
規格外野菜を売るプロジェクトのメンバーと、起業をしようという動きが生まれていきます。

登美さんは、マサエおばあさんのくつ下を”理想とするものづくり”の姿だと葉書でもご紹介していました

就職せずに起業する

八百屋をやっていたメンバーの4人のうち3人で、
廃校で場作りをしようということになりました。

基本はデザイン事務所の場所だけれど、カフェであるという場づくりをしようということに。
廃校の活用事業でコンペに通ったことで、教室の一角でカフェを運営することになりました。

3年間、週6日間、毎日廃校に通い、カフェを運営しました。

そのうち、「ほんとうは暮らしのことがやりたいのに」という想いが頭をもたげてきます。
また、同じことを続けることが苦手な咲季さん。
「週6日同じ場所に通うのが無理すぎた。具合悪くなっちゃって。」

「3年もいると、自分がやっていて圧倒的に嫌なことがわかったので、
それは良かったかな。組織に所属しないでおこうとか、
自分の時間は100%自分で決められる自営業にしようっていう決心は、
それをやってみたからこそできたのかもしれない。」

そんな気づきが咲季さんの「自分らしく生きる」を後押ししてゆきます。

カエルトープの庭にいるカエルさん

「あなた、弟子入りしなさいよ。」

一方で、そこはものづくりをテーマにした施設でもあり、
自分の興味のあった染めや刺子、パンづくりなどのワークショップを開催していました。

ある日、そのカフェに地元の庄内刺子の名人が
刺子教室ができるのではないかと考え、やってきました。

そして、初対面のとき、こう言われたそう。
「あなた、弟子入りしなさいよ。」

その場で弟子入り(?)し、刺子教室を一緒に運営することに。

その経験が咲季さんの今の「艸糸(そうし)」の刺子教室につながっているから、
ご縁ってつくづく不思議だなと思います。

刺子とは・・・暖かい服が東北にまだない時代。端切れの布が北前船でやってきて、
 それを繋ぎ合わせたり、差し重ねて服をつくったのが始まり。服全体に刺し、服を丈夫にする役割を持つ。
 そこから徐々に柄が生まれてきたのではないかと考えられるそう。

 横だけ刺すと裏面に糸が出て暖かくなるため、東北っぽい刺し方なんだとか。

農業芸術

また、カフェを辞めると決めてから、自給分くらいは自分で野菜を育てたいと、
週1回有機農家さんのお手伝いをし始めます。

そこは有機農業の傍ら、平飼いの養鶏を営んでいる農家さんだったから、
野菜と卵を大量にもらうことができました。

今は自然栽培の野菜作りを実践している

その頃、ちょうど母校である東北芸工大学で「農業芸術」という取り組みが始まりました。

ものをつくる大学だけれど、生み出されたものは使いようによっては凶器になり得る。
だから、自分たちはどこに生きているのかを把握するために、
地球=土に触れて、農業をやって、自分たちという存在を認識しようという考えから生まれた取り組みだったそう。

咲季さんも教授のサポートをするファシリテーターとして授業に週4コマ参加することになりました。

授業の内容は、主に畑仕事。春から夏にかけて、夏野菜を育てました。

畑仕事のあとは、軽いストレッチをして、畑の中で座禅をし、心を鎮めて瞑想をします。
そのあと、瞑想のときの感覚を絵でも言葉でもいいのでスケッチするという試みをしました。

なぜ、そのような授業をしたのですか?

大学では、アクティブラーニング(能動的学び)がとても重要
自分で学びたいことを学びにゆかないと何も学べないよということを教えていました。

そのために、自分は今何を感じているか、を意識する訓練をしたかったんです。
あ、これがやりたいんだとか、こう感じているんだとかこれが嫌なんだとか、
そういう身近なところからでいいので気づくこと。
これは言われたことをやることとは全く逆のこと。
「自分とは」ということに能動的に向き合わないと何も生まれてこないんです。」

「慣れてくると、学生からはびっくりするようないい気づきの言葉が出てきて。
それを家に帰って見るのは本当に面白かった。」

咲季さんは、中学の先生に倣ってすべての生徒の描いたことをまとめて、生徒に配る活動を始めました。
そこには、咲季さんなりの「自分らしく生きていいんだよ」というメッセージがあったのだろうなと思います。

その仕事は、3~4年続きました。

「普通」であること「普通」でないこと

取材中のある日の朝食に、焼きたてのパンを出してくれた咲季さん。
小麦粉の生地を発酵させて、フライパンで焼いたのだと言います。

その時、前回とは違うレシピで作ったこと、同じレシピで作ると飽きてしまうと話してくれました。
同じことを繰り返すのが苦手だそうです。

手づくりの焼きたてパン。素朴でおいしい

子どもの頃の宝物が変わっていたように。
もらっていた美味しい野菜たちが規格外だったように。

ある種、咲季さんも変わっていて、規格外なんだと思います。

けれど、それでもいいのだと教えてくれる環境で育った咲季さんは、
いま、ある種、淡々と「普通」に生きています。自分なりの「普通」に。



もしかすると、ある職種や職場では、パンを同じレシピで作り続けられないことは欠点かもしれません。
ちなみに、実は咲季さんは同じことをし続けることが苦手だから、
くつ下を編むということもしていません。
それは、自分が「できないこと」をわかっているから。

その代わり、彼女は彼女ができる方法でくつ下づくりを支えています。

日本社会では、一般的に、苦手なことでもそれを我慢して、
頑張ってやることが正しいことなんだと思わせるような風潮があるように思います。
子どもの頃から、みんながやることを当たり前のように自分もやるのだということを教えられ、
できないこと=よくないことであり、できるようになるまでやることこそ、善なのだと思っています。

しかし、自分が楽しいこと、得意なこと、できること。

お互いにそれぞれの心地よいように働くことで循環していく社会もあると思います。
それで回っているならば、いいんじゃないかな。

腐るから、経済が回るように、
もしかすると、苦手なことや欠点があるから、世界がよりよく回る。
ということも言えるのかもしれません。

「それぞれに、得意不得意があって、それでいいんだ。」

咲季さんの生き方は、そんなことを気づかせてくれました。

暮らし野シューレの畑を訪ねた帰り、咲季さんが、ふいに、わさびを採りに山へ入ってくれた

じいちゃんとばあちゃんみたいに、生きて死にたい

咲季さんが、まだ山形にいた4,5年前に祖父の六郎さんが亡くなりました。
(マサエおばあさんの旦那さん) 
いつもはお盆かお正月しか帰らないのに、その時は6月。

家の向こうの山際にお墓があり、
遺影や遺骨を持った親族を先頭に、喪服を着た親戚縁者たちがずらっと田んぼ道を歩いていきました。

その光景を、足が悪く葬式に出られなかったおばあさんが、
押し車を押しながら見に行くのに寄り添って、家の脇の野原から眺めていたと言います。


辺りはマサエおばあさんが植えた白い花で満開でした。美しかった。
その時、咲季さんは感じたそう。

「ここが天国なんじゃないか。おじいちゃんが全体になったな。
全体に溶けただけで、
おじいちゃんはこの世から居なくなったんじゃない。

死ぬことは、循環することで、幸せなことなんだ。」



そして決めました。

「じいちゃんとばあちゃんみたいに生きて死にたい。帰ろう。ここに住もう。」

天国のような光景が見えた場所。朝もやの風景も美しかった

高山村で働いて、暮らす

咲季さんが高山村に来てから、3年が経ちました。

いまは、月9回の刺子教室以外は比較的自由に働いています。
田んぼや畑に出たり、刺子のものづくりを企画・依頼し、
カエルトープで販売できる製品に仕上げたり・・・。
それは、すごく咲季さんらしくて自然で、無理のない状態に見えました。

みんなやたらと楽しそうな刺子教室。思わず通いたくなってしまう

ひと針ひと針を丁寧に刺しつづける生徒さん

生徒さん自身が刺子をした針山

刺子をタペストリーにしても可愛い

生徒さん同士で作品を見せ合いっこしたりも

当初、高山村に戻ったら、刺子と養鶏で生計を立てようと考えていました。

実は、刺子教室は、山形にいる頃から年に2回ほど開催しており、
生徒さんたちからは、もっと定期的にやって欲しいという声があったので、
定期教室をやるつもりでした。
それが軌道に乗ったら、養鶏もやろうと思っていたそう。

けれど、刺子だけでも思いのほか、生きて行ける感じだったので、
今は養鶏は自給分だけでもいいかなと考えているとか。

「家畜は生きるか死ぬかでシンプルに生きている。
そういうシンプルな暮らしをしている存在が近くにいるって、すごくいいなぁって。
鶏が居たら、鶏に学ぶことができる。」

山形から連れて戻ったにわとりの「あつこ」は、狐か何かに食べられてしまった

暮らしや風景を自分の手でつくる


咲季さんにこれからやりたいことを尋ねてみました。

「やりたいことは、暮らしを自分の手でつくること。
ゆくゆくは、自給自足で自分で食べるものをつくって、
もてなしたりしたい。暮らすことをしたいです。」

暮らし野シューレの畑。自然栽培なので、野菜が草などと共生している

咲季さんの作りたいものは、ものだけでない。風景や世界でもあります。

自分の見てみたい風景とかものは、自分の手でつくりたい。
人に作れる訳ないだろうって思うんです。

多分それは、みんな何かを作っているという環境が周りに当たり前にあったから。

あと、家族の単位もこれまでのものに縛られない、
血のつながりを超えた自由な形での関わりを持てたらいいなと思っています。
シェアハウスなんかもあれば、面白いな。」

そんな流れで「暮らし野シューレ」メンバーのしーちゃんと
スパイスのシェアハウスなんかどうだろう?という話で盛り上がりました。

きっとまた、たくさんの人が自然と集って暮らせる場所が、
このあたりに増えるんじゃないかな、そんな楽しい予感がしてきます。

飯塚さんは、現在、父母との3人暮らし。
けれど、また、一人で自分のペースでの暮らしをやってみたいと、
隣の小屋の床や壁、天井を剥がして、これから改修し、住めるようにするつもりなのだとか。



暮らしは、終ることがありません。
ひとつ、ひとつ、湧いては起こり、その都度、手を動かす。

そんな百姓のような暮らしが、彼女にはとても似合う。
そして、咲季さんなら、できるなぁと思うのです。

咲季さんが改修しかけている小屋。これからどんな風になるのか楽しみだ

カエルトープのあり方

帰り際、お店を見せてもらい、その後、しばらく、母の和子さんと立ち話をしました。

夫の武久さんとされた改修の話や、咲季さんの話などを、
たまにお茶などいただきつつ、和やかに話していたとき、こんな話をしてくれました。

「この前、東京の素敵なお店を見て来たの。
そういうお店もいいなと思うんだけど、私たちが目指すものではないなって思って。
自然があって、土の匂いがしていて、風が吹いていて・・・やっぱりそういうところがいいな。

死ぬまで終わりなく・・・。ここで終わりでいいんじゃない?っていう風にはならないんじゃないかな。



きっと、カエルトープはこの土地にありながら、すこしずつ変化を続けていくのでしょう。

生きもののように。

そして、きっと、いつも優しく誰かのことを受け止めてくれる。
手編みくつ下のような温かさをもって。

刺子教室の生徒さんが、お土産にきのこと梅干しを持ってきてくれた

咲季さんとマサエおばあさんのくつ下

高山村に居る間、咲季さんに聞きたくて、聞きそびれてしまったことがありました。
それは、咲季さんにとっての「マサエおばあさんの手編みくつ下」の存在についてです。

メールで尋ねてみると、咲季さんからこんな返事が届きました。


(咲季さんからのメッセージ)

短いヨレヨレの毛糸も使う。おばあさんが当たり前のようにやっていた仕事。

ネットで注文すれば明日届く時代に、
わざわざ手間をかけてものを作ることを当たり前にすることって出来るのだろうか?
と考えさせられます。靴下はそんなメッセージが乗った履物だと思います。

今、刺し子で日用品を作る際に、新しい布を使うことをやめました。
使用済みのものも含めて、手拭いや風呂敷をいただいて藍で染め直しています。

また、ワークショップの際も、
もう使わないからといただいた生地やハギレを使うことにしました。

おばあさんのように生きて死んでいきたいと思いこの地に移住した私にとって、
靴下編みが受け継がれ、そばにいつもあることは、
おばあさんがいつもそばにいてくれるような暖かさと、私が私らしくある方へ導いてくれている、
そんな気がしています。

古い端切れを用いてものをつくるようになった


くつ下は道しるべ

いま、自分が生きたいように生きることほど、
自由なようで、ある種の難しさがある時代なのだと思います。

マサエおばあさんのくつ下は、
そんな時代を歩む咲季さんがこの土地で暮らし、生きていくうえでの道しるべなのです。

マサエおばあさんのくつ下 八十八足展をした時の、マサエおばあさん、八十八歳。

咲季さんの道しるべ

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