石見銀山 群言堂

マサエおばあさんの手編みくつ下【第2回】 くつ下づくりを支える カエルトープ 飯塚咲季さんのこと

登美さんが惚れ込んだものづくりのあり方がここにあります。
同じものがひとつとしてない、手編みのくつ下の中から
あなただけのくつ下を選びにぜひお越しください。

イベントに連動して、マサエおばあさんとその孫である飯塚咲季さんのものづくりや暮らしについて、
3回に渡り、ご紹介したいと思います。

今回は、第2回。
くつ下づくりを支えている孫の咲季さん、義理の娘の和子さんで営む「カエルトープ」というお店のこと、
咲季さんの生き方についてご紹介していきます。

* * * * * *

咲季さんとの出逢い

マサエおばあさんのくつ下について取材するため、
孫の飯塚咲季(さき)さんの住む 群馬県高山村に向かいました。

東京から新幹線で上毛高原駅までは、約1時間。


高崎を出発してしばらくし、大きなトンネルを抜けると、
車窓からの景色が一変、
高く連なる山々や広々とした畑で収穫作業をする農家の人々が見え、
牧歌的な空気が窓の外を流れてゆきます。

上毛高原駅には、咲季さんが車で迎えに来てくれました。

野良着ですみません、と言う咲季さんの服は
藍染の風合いのある衣で足元には地下足袋、

単なる農作業着というのでなく、咲季さんの世界観を表しているようにも思えました。

これから、飯塚さんたちのお店「カエルトープ」のある高山村へ向かいます。

高山村は人口3,700人ほど。標高は420m~1,250mほどの高地にあります。

車で向かう道すがら、高山村のことを聞いてみました。

村の名物のようなものは特にないけれど、
大きな天文台があって、星で地域おこしをしていること。
村に若い人が少なく、咲季さんも村の役場の方針づくりに参加していて、
20代~40代のメンバーでこれからの村について考えていのだということを話してくれました。

外を見ると、高地の肌寒い空気の中で、赤々としたりんごが木にわさわさと実っていました。美味しそう。

カエルトープへ

車で30分ほどで、飯塚さんの自宅とお店、ギャラリーなどがある「カエルトープ」に到着。
周りを田畑や森、川などが囲む、のどかで自然豊かな場所です。

でも、地域では大きな通称”銀座通り”に面しているとかで、車通りの多い、すこし賑やかな場所でもありました。

蛙はじめて鳴く

「カエルトープ」は、6,7年前に飯塚咲季さんの父の武久さん、母の和子さんが、
老いてきた父母(マサエおばあさんの夫の六郎さん、マサエおばあさん)の様子を
見に帰って来ることが増えたことをきっかけに、
この場所で何かをやろうと考えたことから生まれたお店です。

「最初はアトリエをつくるつもりで、図面を描いて。こんな感じでやろうかと話していたんです。
そんな時『あるものを生かして始めなよ。』という
(咲季さんの)言葉に、家の一部を改修して使うことに決めました。」

古い家の内壁を剥がしたりしながら、自分たちの手でひとつひとつ改修し、
お店の壁を塗ったり、棚など作りつけたりして、
約1年半かけて完成させました。

また、ものづくりの好きな家族なので、どうせなら他の作家さんの作品も置きたい。
そんな考えから、自分たちが作った刺子の小物や織のストールのようなものを置いたり、
自分たちが気に入った作家さんのものを置いたりという今のようなお店の形ができあがりました。

光の差し込む明るいお店

作家さんの器や帽子、暮ら野シューレのお茶などが並ぶ

ストールは母の和子さんが織られたもの

刺子の小物の製作は刺し手さんにお願いしている

オープンは、5月4日。和子さんの誕生日でした。

その日は七十二候でいうと「蛙始鳴(かわずはじめてなく)」の日。

そこから、カエルの名を取ったのだといいます。

そして、「蛙がゲコゲコ鳴くところ」「帰る」という意味も込めました。
そこに場所という意味を持つ、トープをつけて、「カエルトープ」と名付けました。

お店というよりも居場所

オープンした日は、村の人や友人などいろんな人がやって来て、助けてくれました。
近くに住む染色作家さんも花束を持ってやってきてくれたそう。

ものづくりをするのは好きだけれど、
売ることが苦手だったり、売る場所を持たない作家さんも多いです。
だから、待ってました!というような反応があったと言います。


また、カエルトープは作家さん同士をつなぐ存在でもあります。
できれば、もっと近くの作家さんにものを置いてもらえたらとも考えているそう。

しばらくは、前橋から通いながら、週末にやってきては、
お店をオープンするという方法で運営していましたが、
3年前の2015年9月、咲季さんが先に移住し、
その後を追う形で、2016年4月に武久さんと和子さんが移住。
今では、3人で暮らし、週3日お店をオープンしています。

店というよりも、みんなが集まる場所でありたいんです。
県内外から人が来てくれて、出逢いが生まれたり、お客さん同志が繋がっていったり。
そういうのが楽しいですね。」
と和子さんが話してくれました。

飯塚家のみなさんにとって、
日々の暮らしや人と人とのつながりの中に「カエルトープ」という場所があるんだろうな。

咲季さんの母である和子さんが主にお店に立っているそう

マサエさんの手編みくつ下もお店に展示されていました

暮らしをつくる

取材に伺った日は、「暮らし野シューレ」という自然農法で田んぼや畑を一緒にやったり、
育てたハーブなどでお茶をつくったり、イベントをしたり・・・
暮らしにまつわるさまざまを地域で出逢ったメンバーで行う活動の日。

庭の薪置き場の前で、
メンバーの、もっさん、じゅんさん、さわちゃんが
自然農で育ったお米の脱穀をしていました。
ちょうど作業が終わったところ。

薪置き場には、キウイの木が屋根のように茂っており、
素敵な木陰ができていて、その下には木の椅子が3つ並んでいます。

椅子に座って柿を食べながら休憩。穏やかな空気が流れてゆきます。

暮らし野シューレの仲間たち

その晩は、メンバーのみなさんが交流会を催してくれました。

場所は「カエル舎」
誰でもイベントをしたり、カフェをしたりできる場所です。
月に一度、イタリアンレストランがお店を開く日もあるそう。

地域の名物「ほうとう」やメンバーが持ち寄った料理を囲みながら、
みなさんとお話しました。

メンバーには、珈琲屋さん、整体師さん、工務店の広報をしているひと、
オープン時に花束を届けてくれた近所に住む染色作家さん(本業はお花の栽培)、
スパイスが好きでこれからスパイスを使って何かを始めようとしているひと、
いまは資格取得のためにお休みをしているひと・・・ 

それぞれが自分がやりたいことに素直に生きている、生きようとしているんだなということ
その言葉やしぐさから、感じ取ることができました。

そんな人たちが集まる空間は心地がよく。
真面目な話でもしょうもない話でも臆せずに自然と言葉にすることができるから、不思議です。

「暮らし野シューレ」についての話を聞いていると、
メンバーのじゅんさんが、ふいに

「気持ちがいいからここに来ていて。違うなと思っていたら来ないと思うな。」と話してくれました。


取材しているわたし(こもり)とカメラマンのしゅんくんも
初めてこの場所を訪れたのだけれど、初めてな気がしない。

不思議な暖かさと愉快さ、穏やかさでいっぱいの空気感は、
きっと飯塚家の咲季さん、和子さんたちご家族が作り上げて来たものなのでしょう。

その空気の気持ちよさに、引き寄せられた人たちが、村の外からたくさん集まっているのです。

整体をしているメンバーじゅんちゃんにならって、みんなで背中をさすり合いました

このような場づくりをしてきた咲季さんですが、
実は、高山村に生まれ育った訳ではなく。3年前にこの地にやってきたそう。

咲季さんは、一体どんな風に育って、
この地にやってきて、くつ下づくりを支えながら、ものづくりをしているのだろう?
そんな疑問が湧いてきました。

風変わりな宝物

咲季さんは、高山村に生まれ育ったのではありません。
実は、お父さんが仕事をしていた前橋に生まれ、育ちました。

どんな子どもだったのでしょうか? 

子どものとき、自分にとっての宝物が変わっていたんです。

子どもの頃暮らしていたのは、新興住宅地だったんですけど、
車のパーツや精密機器の部品なんかが捨ててあるところがあって。
それを拾うのが好きでした。未だに宝物箱に入れて持っています。」


そう言って、見せてくれたのがパーツがいっぱいに詰まった道具箱。

何に使われていたのかもよくわからない部品のようなものや、小さな豆電球、釘など、
咲季さんのお眼鏡に適ったものたちが集まっている。

今でもたまに拾ったパーツを入れてしまうんだとか。

「友達にこういうの好きでしょ?と言われて。
でも、これは違うなとか、甘いなとか(笑)。

何でもいい訳じゃなくて、自分なりのこだわりがあるんです。」

咲季さんお気に入りのパーツの一部は、
庭の小道に埋め込まれ、柄の一部になっていました。
なんだか嬉しそうにそこにありました。

咲季さんの大好きなパーツ(赤いもの)が庭の小路の一部に

自分はそのままで居ていい

このパーツ集めのことで、今の咲季さんにつながっていることはありますか?

好きなものは好きって思っていい、ということかな。

両親も(私が)変わってる子だって肯定してくれていました。
そんなもの捨てなさいじゃなくって、
うちの子こういうの好きでね。って面白がってくれているような感じで。

自分がそのままで居ていいんだ、と今思えているのは、
小さい頃からずっとそういう風にして過ごして来たからかもしれない。

周囲の温かいまなざしと関わりによって、
自分が自分のままでいていいのだという肯定感の種が
子どもの頃の咲季さんの中に芽吹き、しっかりと育まれてゆきました。

ものづくりの遺伝子

咲季さんの子ども時代を表すエピソードが他にもありました。

「子どもの頃は、あんまり気の合う友達がいなくて。
ほんとうは川へ行って遊びたかったんだけど、危険な三面コンクリートの川しかないし・・・。

母がその頃パッチワークをしていて。
道具などもあったので、弟と人形をつくったり、人形の服や持ち物をつくったり。
友達と遊ぶよりも家で引きこもって何かを作っている方が好きだった。
作る時はいつも夢中でした。」


なんで作ることが好きだったんでしょうか?
「買いものが好きじゃなくて、欲しいものをつくるということが大事だったんでしょうね。
腰からぶら下げるくぎ袋をつくりたいとか、お人形のしょってるリュックをつくりたいとか。

つくりたいもの、見てみたいものがいつもその先にあって、ぐわーって作っていた気がする。」

咲季さんが自分で刺した刺子の見本帳

自分の見ている世界をつくる

咲季さんは、世の中に既にあるものが欲しいのではない
のだと思います。

既にあるものを買って手に入れるのではなく、自分がその先に見ているものだったり、
世界を、この世の中に具現化していくことが好きで。

それは、ものをつくるということだけでなく、
空間だったり、人とのつながりを生み出すことだったりもするのでしょう。


家族も、父親は大工、母親はパッチワーク、祖父は畑、祖母は編み物とものづくり一家であり、
前橋という都市部で暮らしながらも、父の武久さんはものが壊れたら直すということを実践していたそうです。

また、武久さんの言葉で記憶に残っている言葉がありました。

「おじいさん、おばあさんは、百姓。百の姓(かばね)なんだ。
それは、自分の身の回りのものを何でもつくる人のことで、つくるのが当たり前だから、すごいんだよ。」


「だから、ものづくりの遺伝子は、親やまたその先の世代から受け継いでいるのではないかな。」

咲季さんは、穏やかな微笑みを浮かべながら、話してくれました。

咲季さんと、祖父の六郎さん、祖母のマサエさん

自分の人生を生きること=美大への進学

咲季さんは、ものづくりが好きな家族に絵を褒められた経験から、中学時代は美術部に入部。
高校生の頃は、美術系の学校へ通っていました。

大学進学について考えていた頃、
高校の先生が武蔵野美術大学、多摩美術大学へ連れて行ってくれたそうです。

「つなぎを着て、手ぬぐい頭に巻いた彫刻家のおねえちゃんが案内してくれて、
キャンバス内で珈琲淹れたり、キャッチボールしながら絵を描いている。
最高じゃん!って・・・。そこで美大に行きたいなと思ったんです。」

けれど、漠然と家から近いし、公立だから安いし、
親も賛成してるし、ということで、地元の美術史の大学に進もうと考えていたそう。

その頃、高校時代の恩師が咲季さんのことを見抜いてこんな言葉をかけてくれました。

「あなた、ほんとうにそれでいいの?」

「良くない!って思いました。それを言われるまで、ちゃんと考えていなかった。」

それまでも中学や高校で先生に恵まれ、
度々、哲学的な思考をする議論の場などを設けてくれており、
本質的なことを見る力を身に付けさせてくれた先生でした。

正解不正解ではなく、自分で考えることに意味がある

先生の教えで印象に残っていることはありますか?

「(議論をする授業の中で)一番覚えている話が、
ある家族で子どもが転んで頭をぶつけて大量出血していた。
救急車を呼んでいる間もなく直接搬送しなければいけないくらいの緊急事態で。
でも、隣のお家に車貸してって行ってもダメだって貸してくれなくて、
隣の家の人を殴って車から引きずり降ろして
車を奪って病院まで連れて行った彼の行動は正しかったのかどうか?という話。

私は子どものためなら殴っていいだろうって強烈に思ったんですけど、

先生が教えたかったのは正解不正解ではなくて、考えること自体だったり、
絶対に正しいとか絶対に間違っているというものはこの世の中に存在しない
っていうことだったんだと思うんです。

その場ではわからなかったけど、今はそれをひしひしと感じる。

しかも、先生が毎日全員分の意見を学級通信で書いてくれていたんです。
優秀な意見だけでなく、すべての意見を等しく。
それぞれがそれぞれでいいことを日々伝えてくれていた。」

”自分らしくあることはどういうことか、自分の人生を生きるとはどういうことか”
を先生の教えから受け取った咲季さんは自分自身と向き合い、
美術史の大学ではなく、本気で美術をやりたい人が集まっているなと感じる
美大「東北芸術工科大学」に進学することに決めました。

カエルトープの向かい側の景色

洋画コースなのに、絵を描くのを止めた

東北芸工大へ進学し、芸術学部美術科洋画コースへ進んだ咲季さんでしたが、
すぐに絵を描くことを止めます。

「油絵しか描けないからその学科へ入ったけれど、
ほんとうにやりたいことは別のことだと気づいて」

2年生からは、小さな小屋をつくって作品として出したり、
くずの蔓をたくさん集めて作品をつくったり。

洋画コースに入ったけれど、絵を描かない。

それは、東京の美大ではよくあることだそうですが、
保守的な地方の美術大学では異例のこと。
先生も当惑していた様子でした。

「その頃、アトリエの中で作品をつくることに意味を感じなくなっていたので、
中山間地域の廃校活用事業で、年に計2ヶ月くらい廃校に泊まり込みで
作品をつくるということをやっていたんです。
その地域でフィールドワークで聞き書きなんかもしていて。

アートをやる場所にいる自分はいるけれど、
新しいものをつくらなくても、
すでにあるものだけでも充分面白いなと気づきました。」

庭で自然栽培で育てるにんじん畑。他の植物と共生している

リアカーで八百屋!?

その後の4年間、そこで作品をつくり続けました。
お風呂もないし、不便な廃校生活だったけれど、いいこともあったそう。

近所の農家さんが米袋いっぱいの茄子など、
野菜を食べきれないほどたくさん届けてくれたのです。


なぜ、そんなにたくさんの野菜を?

「規格外の野菜というものがあって、
規格に合わなければ捨てられてしまっていると知りました。
でも、すごく美味しいものばかりで。これを大学に持ち帰ろうと思った。」


それから、学内で規格外の野菜を集めた八百屋を3,4人のメンバーで始めました。
リアカーでの引き売りです。


大学の近所の農家さんからの委託販売で、価格は農家さんに決めてもらいました。
お金を稼ぐということでなく規格外の野菜を流通させることが目的だったので、
利益は売価の5%をもらうことにしていて、
そのかわり、余った野菜はくださいとお願いしました。

というのも規格外の野菜だから、持ち帰ったところで捨てられてしまうから。


腐ることで経済が回る

野菜には旬があります。
旬の野菜はたくさん採れるため、規格外品もたくさん出る。
そうすると売れ残ることも多いので、余ったものをたくさんもらう機会が増えました。

その時、気づいたことがあります。

「旬の野菜は、工夫をしないといけない。保存食をつくらないと腐る。
お金は腐らないから、便利なんだ。」

そして、腐ることで経済が回るという仕組みに気づきました。

<咲季さんたちの思いついた 腐る経済システム>
たくさんの野菜をもらう
  ↓
腐らないうちに食べようと友達を呼ぶ
  ↓
友達がたくさん家に来る
  ↓
腐るから、たくさん食べてともてなせる
(そして、たまに友達からのリターンがあったりする)
  ↓
腐るから、ちゃんと食べようと保存食の知恵がつく

「腐るってすげーーー」とみんなで盛り上がりました。

渡邊格さんの名著「腐る経済」が発売される前のこと。
若者たちは、腐ることで経済(コミュニティ)が回ることにすでに気づいていたのでした。

(**第3回につづく**)

第3回では、大学卒業後から現在の咲季さんの働き方、ものづくりのことをご紹介予定です。

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