石見銀山 群言堂

第一話|吉田正純×松場登美 対談|三浦編集長【『雑貨展』号外】

21_21 DESIGN SIGHTでの展示『雑貨展』への登美さんの参加を記念して、広報誌「三浦編集長」の号外を作りました。

誌面にはすべて収録できなかった、展示什器を作った大森在住の彫刻家・吉田正純さんと登美さんによる対談を全文掲載します!


登美 最初に雑貨展出展の話が来たときに、こんなにすごいメンバーの中で私なんかに何ができるのだろうかと悩んだのよね。でも正ちゃんのテーブルの力を借りれば何かできるかもしれないって思えたの。

雑貨をただのテーブルに置いただけでは大したことはないけど、あの鉄のテーブルの上に置いてみると作品になるって、ずっと以前から思っていたのよ。

だからあのテーブルの力を借りればきっとうまくいくんじゃないかって。

錆びの力なのかな、正ちゃんが昔、出会った頃に「鉄は朽ちるから美しい」って言ってたのがすごく心に残っているし、それまでは無機質で冷たいと思っていた鉄に対する概念を正ちゃんは覆してくれたよね。

松場登美(まつば・とみ)
1949年 三重県に生まれる
1981年 夫のふるさと大森町に帰郷
1989年 雑貨ブランド「ブラハウス」を立ち上げ、
1998年 株式会社石見銀山生活文化研究所を設立、
「群言堂」を立ち上げ、商品の企画・製造販売を手がける。
2008年 築220年の武家屋敷を再生した宿「他郷阿部家」を始める
株式会社石見銀山生活文化研究所 代表取締役所長
株式会社他郷阿部家 代表取締役

正純 鉄の寿命は、単純に言うとほぼ人間と同じくらいなんですよ。

例えば20歳の時に作った作品は、自分が先に死んで後には残るんだけど、死ぬ時に「ああ、今こういう状態か」っていうことを確認して責任をもって死ねる。

でも金とか銀とかプラチナっていうのはそれができない。3000年前に金を使って何かを作った人は、3000年後にそれがどういう状態をしているかっていうのは分からないわけだよね。予測できない。

それが今の時代に発掘されて現代の人が見ると考えると、作った人と今の人との接点はその作ったもの以外何もないよね。だから見る人は自分の感覚でしかそれを評価することができない。

だけど鉄っていうのはそこそこ人の寿命に近いところがあるから、まあまあ責任が持てる。そこがいいと思って鉄の仕事をしてるんだよね。

あとこれは素材と付き合ってる人じゃないと分かりにくいところがあるかもしれないけど、素材は嘘をつかないし、正直だし、自分がいいかげんな仕事をしたらそれなりに素材にも表れてくるから、それなりの緊張感をもって付き合うことができるのがいいということですね。

吉田正純プロフィール
吉田正純(よしだ・しょうじゅん)
1954年 島根県飯石郡に生まれる
1983年 東京芸術大学大学院美術研究科修了
日本美術家連盟会員
二紀会会員
曹洞宗龍雲山万善寺住職
石見銀山工房むうあ
島根県現代彫刻振興委員会員
1993年より大森町在住

登美 このテーブルは雑貨と呼べるのかな?



正純 このテーブルは什器でしょうね。

什器っていう言葉は仏教の世界からきていて、見た目を演出するものなんだよね。見た目の世界でマインドコントロールしてしまう。そこにいろんな総合芸術が入り込んでいくことによってバージョンアップしていくんですよ。

音だとかお香の香りだとか、五感を通して人の中に入り込んでいくような環境を操作するという、そのための一番ベーシックなところには什器が必ずある。

例えば寺の中には動産・不動産があるけど、その動産の中には「什器:○○」って書くコーナーがあるからね。だからそのぐらい大切なものの一つとして扱われているんだよね。

仏具もすべて什器。仏像や仏堂なんかを飾り付けることを「荘厳(しょうごん)する」と言うけど、そういうところから行事が始まるわけ。だから什器という基礎部分がどうあるかによって、仏事の一つ一つの在り方が決まってくるよね。

群言堂本店の中庭にある作品

正純 吉田の仕事っていうのは基本的には抽象的な仕事なんだよね。形があるけども、これは犬だよ、猫だよとかっていう具体的な形が明言できないような、逆に言うと明言したくないようなものを作っているわけ。

そこにどういう意味があるかっていうと、一人一人がその形を見てどう感じるかとか、何に見えるかというものがその人の価値基準になってそれぞれが答えになる。

そこに抽象の面白さがある。そういうゴールがあるから何でもありで何でも作れちゃう。

こういうことを言ったら失礼かもしれないけれど、数ある彫刻の中で雪が降り積もって美しく見える彫刻を作る人って滅多にいないでしょ。私が知る限りでは3人しかいない。

その中の一人を挙げると、ヘンリー・ムーアですよ。彼のすごいところは。具象でもあり抽象でもあるところで、そういう微妙な路線で彫刻を作っている唯一の人だと思う。

彼の作品を見て具象に走る人もいれば抽象に走る人もいる。彼の彫刻は常に野外にあって、野外できちんと機能しているうまみはあると思う。

けれどそれは造形的にいいだけであって、素材的には大したことない。俺みたいに鉄にこだわっているわけではない。そこに吉田とヘンリー・ムーアの大きな違いがある。まあ比べられないけど。

雪をまとった群言堂本社玄関入口。これも正純氏の作品

正純 俺が今ものを作っているのは、例えば今田んぼに置いてる鉄の彫刻というのは、東京の六本木で二週間ぐらい展示するけど、六本木で雪が降った時にあれを展示することはないでしょ。

だから自分としてはあれはプロローグ以下、もうカスみたいなもんですよ。六本木に置いた彫刻っていうのは。それを持って帰ってこの田んぼにポンと置いて初めて彫刻が息づき始めるわけですよ。

群言堂本社前、稲刈り後の田んぼでの作品展

登美 これまで「復古創新」という考え方で古民家を再生してきて考えるのは、古民家だからといってただ絣の座布団だとかちゃぶ台を置いてというのは何か違うと思うんですよね。どちらも大好きなものだけど。

あそこに正ちゃんの照明と鉄のテーブルがあることがこの阿部家にとってとても意味のあることなのよね。でも私はどちらかというと正ちゃんの作品は野にある方が好きなんですよ(笑)。

いつだったか、安田火災の賞を取った時にどこかの美術館のビルの中で正ちゃんの作品どこどこって探してたら目の前にあったことがあったけど、私たちにとっては正ちゃんの作品は山の中にあったり畦道にあったりで、そういうところが好きなんですよね。

だからこのテーブルだけが唯一家の中にあるんだけど、正ちゃんの作品の中でもこのテーブルの味が一番いいね。何年くらい素材を放置したんだっけ?



正純 あれはね~、3年弱くらいかな。それでもいろいろ加工はするから差がつくんだけど、できるだけギリギリまで待ってもらって。

まあ、大切に扱ってメンテナンスもきちんとしてもらってるから今のいい状態で持ってると思うんだけど、それは環境によって変わるよね。

普段は阿部家の中の間にある鉄のテーブル

登美 人の触れる回数によっても違うのかなという気がしますね。それはこのテーブルだけに限らず、どれだけ触れたかによって物の持つ味わいは変わりますよね。

以前祥見さんという方が小野哲平さんの陶器を持ってきて、新品のお猪口と5年使ったお猪口と並べたんですよ。

どっちがいいかと聞くと、その場にいた人みんなが圧倒的に5年使ったものの方がいいと言うんですよ。何度もお酒を入れて飲んだ時間の蓄積というものによって全く味が違ってきます。



正純 そこらへんなんですよ、結局。

俺は勉強している間はほとんど工芸の勉強をしてたんですよ。食器とかを自分で作りながら。

だから、経年変化というか、どれだけ時間と自分の感覚の変化、色んな意味での変化とどうやって付き合っていくかというところの究極なところから入り込んでいるんですよ。

東京にいる時はフリーパスで国立博物館の裏に入れたから、塗り物の現物なんかを至近距離で見ることができたんだよね。

あと国立の図書館があって、そこにも出入りできたから近代絵画の現物も目の前で見ることができた。そうやって勉強をしてきたから今の仕事ができるという気持ちはすごく強くあるけどね。

そこから始まっているから、自分が作ったものに満足するっていうことはまずないよね。

だからどれだけレベルの高くていいもの、完成されたものを多く見ているかっていうことはとっても大切なことだよ。そういうものが自分の内面に蓄積されたうえで何を作っていくかということ。

本店中庭に設置した当時の作品(現在の姿は本記事上部に掲載)

登美 でもいいものをたくさん見ることっていうのはとてもいいことだと思うんだけれども、今はね、いいものをいっぱい見て知っているにもかかわらず表現に関しては厚みの持てないことってあるよね。

昔はそんなに展覧会とかを見に行く機会もないし辺鄙なところに住んでいても、ちょっとしたきっかけですごく評価されて名前が出てくる人もいるでしょ。それはなんなんだろうね?

私も若い子たちにより良いものや本物を見てほしいし、そういう機会を持てることってものすごい幸せだし・・・。

例えば白洲正子さんは環境上すごく良いものを見たり聞いたりという経験をできる環境にいてあの人の美意識ってあると思うんだけど、そうでなくても持てる人っているでしょ。

その人たちとはどう違うんだろうって。



正純 やっぱり自分があるかどうかでしょうね。



登美 結局自分だよね。だからいくらいいものを見られる環境にあっても、それを上手く表現できるようになるとは限らないよね。



正純 見る目があるとかないとかっていうのはついて回ることだけど、いいものをいいものって判断できる目を持ってないんだよ。

正純 いいものって自分の周辺に一個か二個くらいしかないかもしれないんだけど、その一個か二個の「これは良いものだ、他のものとは違う」と判断できる自分がちゃんと育っていないと、それが目の前にあっても選別できないよね。

これは言い方が失礼かもしれないけど、区別と差別っていうのは全然違うものだよね。例えばお猪口一つとっても、私は普通に差別して見てます。

この土でできた手に持つものって山のようにあるでしょ。山のようにあるものの中で良いか悪いかっていうのは完ぺきに上下関係だから。

でも良いもの同士っていうのはもう区別するしかないでしょ。これはこれなりに良いし、これもこれなりにいいという。

お猪口なんて普通にお酒が飲めればいいけれども、この酒の味はこのお猪口で飲んだときの味として記憶に残っていくとしたら、これは良いものですねって言えるわけ。それは区別なんだよね。

区別っていうのは一人一人全部違うから。俺はこの木のお猪口が好きっていう人がいれば、人によっては磁器の方が酒の味がしっかり伝わってくるっていう人もいる。

ガラスの方がいいとかいろいろあるかも知れない。でもいいものはいい。



登美 作品なんかは値段をつけられないかもしれないけど、私の場合は仕事上洋服の素材を見に行くでしょ。

私は高級品を使うつもりもないし高級品が大好きなわけではないんだけど、生地屋さんって生地見本を見せる時に、決まって値段を見せないんですよ。

それで見て選ぶでしょ、そうすると必ず高いものを選んじゃう(笑)

全然知らないんだけど、見て選んでいいねって言うと「実は・・・」って言われてびっくりするほど高いやつだったり。

見るからに高級そうだとかそういうわけではないんだけど、何かが違うんだよね。


<つづく>



inkan_miura.jpg
書き手:広報課 三浦

吉田正純×松場登美 対談|三浦編集長【『雑貨展』号外】の他の記事