石見銀山 群言堂

第一話 夢の虹は何処へ|新里カオリさんの根のある暮らし

向島の立花テキスタイル研究所前にて(犬を背負っているのが新里)

読者の皆様、こんにちは。新里カオリと申します。

埼玉県で生まれ、30代前半まで東京、神奈川と関東圏をうろうろし、斯く斯く云々ありまして、現在は広島県尾道市の、向島というところで夫とたくさんの動物たちと暮らしています。

尾道・向島の自宅前の畑にて

ハイジや大草原の小さな家を観て育った世代である私の幼い頃の夢は、「田舎で動物にまみれて暮らす」ことでした。

そんな私のこれまで、を振り返るのに幼少期の経験や思い出を語るのは不可欠なのですが、まずは何故、今尾道に住んでいるのか、に至る部分からお話しさせていただきます。

兄・姉と(左が私)

小、中、高校は地元埼玉の、ごく普通の公立学校に通い、幼いころから動物が大好きだったので「将来は獣医になる!」と両親親戚ご近所さんにまで宣言していました。

小学校の教員だった母も同じく動物好きで、学校で増えすぎたウサギを引き取ってきたり、私が小学1年生になった年のクリスマスには、インコのツガイを小鳥やさんで買ってくれ、(のちに私が繁殖マニアになって家じゅうインコまみれにすることを、この頃の両親は想像だにしていなかった)もう寝ても覚めても、動物のことで頭がいっぱいでした。

そのまんま高校生となり、3年生になるまで頭の中はお花畑、周りの同級生たちが真剣に進路を話し合っているのをよそに、毎日犬や小鳥と遊び呆けていました。

自分の学力では獣医学部は難しい、とうっすら気が付き始めた頃、すでに1学期が終わろうとしていました。

それでも特に焦ることもなく只々楽しく過ごしていたある日、油絵の授業で「新里さんは、美大に行ったらどう?向いていると思うわよ。」と、当時の美術の先生に褒められ、完全に舞い上がり、すっかりその気に。

帰宅するやいなや母親に「私美大行くわ。美大って、毎日何か作ったり絵を描いたり遊んだり、好きなことだけしてたらいいんだって!」と鼻息あらく報告。

やっと進路を決めたか、という安心感とともに突然の方向転換に戸惑ったであろう母親、しばし口をあんぐりしていましたが、後日談として「3人いる子供のうち一人くらいこういうのがいてもいいか」と思ったそうです。

一応両親からの承諾を得、ここからは超高速で予備校に申し込み、芸術祭にも行き、士気をあげて受験当日を迎え、色々工夫して(この工夫についてはまた別の機会にお話しします)武蔵野美術大学の工芸工業デザイン科になんとか合格、テキスタイルを専攻し楽しいキャンパスライフ開始!

気の合う友達もたくさんでき、素敵な恋人とも出会えて、それはそれは夢のような日々でした。

優しい店主が営む中華料理屋でアルバイトをし、毎日おいしい賄いを食べさせてもらい、バイト後はみんなで鎌倉までバイクを飛ばしたり、誰かの家でお菓子を頬張りながら映画を観たりと、最高に楽しい暮らしをゲットしましたが、3年生、20歳になったのを境に、自分が何のために制作しているのか、これを作ったからと言って社会の何の役に立っているんだろうか、というジレンマの沼に、落ちていきました。

それまで何となく感じていた違和感、なんとも言い難い罪悪感が、日に日に風船のように膨らんでいったのです。

大学のゴミ捨て場には、誰かの「元」作品たちが、ただのゴミとなって積み上げられていて、その山を前に「私は、自己表現というエゴを形にするがために、ゴミを生み出しているだけだ」と心の底から自分自身に落胆し、その日は情けなくて涙が止まりませんでした。

結局大学在学中にその悩みを払拭することのできなかった私は、社会にでる勇気も持てず、時間稼ぎ的に大学院へ進み、それでも解決はできないまま、さらに2年悩むことになります。

ものを作ること、好きなことを罪なく形にすることに自信が持てなくなっていたこの頃、母と2歳上の幼馴染みを立て続けに亡くし、心身ともにどん底でした。今となっても、この頃ほど苦しかった時期はありません。

制作はおろか、生きることにすら不安と疑問を感じた時期でした。


2、もう全部やめちゃえ につづく


筆者プロフィール

新里カオリ

にいさと・かおり


1975年 埼玉県生まれ。
2000年 武蔵野美術大学大学院 テキスタイル専攻修了。教育関係の仕事などを経て2009年、尾道・向島に移住。株式会社立花テキスタイル研究所を創設、主宰。
向島で80年以上織られ続けている帆布を、地域から出る廃材で染めた環境配慮型の製品を製作、販売。地域で生まれたものを原料にする取り組みをしながら、糸紡ぎ、染め、織りの指導などを全国で行う。

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